ヴァイオリン弾きにはアザがある

ヴァイオリン弾き内山恭子のエッセイブログ

「感謝」と「自分に出来ていること」は、混ぜるな危険

「今の私があるのは、周りの人達のおかげです」

 

過去、様々なシーンで口にしてきた感謝の言葉。自分一人の力だけでここまでこれなかったのは事実だし、言葉そのものに害などないが、私の心の中に住む「もう一人の私」は痛いところをついてきた。

 

「私、周りの人達に対して本当に感謝してる?」

 

私達は、幼少期から事あるごとに「人に感謝しなさい」と大人から教え込まれる。「ありがとう」という言葉を発する、いわば形から入って、そこから徐々に「相手に感謝する」とはどういう感情なのか、を知っていくような気がする。言葉を発する行為を繰り返していくうち、言葉に真の意味での「感謝」の感情がのっかるようになるのだと思う。

 

(生まれて初めて「ありがとう」という言葉を発した瞬間から、感謝の感情を100%理解している人は、多分いない。)

 

歳を重ねるにつれ、有り難いなぁ、この感謝の思いを相手に伝えたいなぁ、というシーンは増えていくのに、それを表現する日本語は「ありがとう」「感謝します」「おかげさまで」の三つくらいしかない。

 

感謝の意を示す語彙が、他にもあれば良いのに。

「ありがとう」や「感謝します」「おかげさまで」は使い勝手が良いからなのか、はたまた使用頻度が高いからなのか、自ら発するこれらの言葉に「ちゃんと感謝の感情がのっている」確信が持てない瞬間があり、その度に後ろめたい気持ちになる。

 

人に何かしてもらったら、ただ素直に「ありがとう」と言えば良いではないか、と思う方もいらっしゃるかもしれない。感情の在り処を考えずに感謝の言葉を口にする行為から「徳を積んで、周囲から良い人と思われたい」という胡散臭さを感じる私は、相当捻くれている。

 

ただ捻くれ者を自称する私でも、「ありがとう」と口にする行為が、人間関係や仕事を滞りなく進める潤滑油になっているのは否めない。

 

そう認めつつ、素直に「ありがとう」と言うのを躊躇ってしまう、何なら罪悪感すら覚えてしまう瞬間が「演奏を褒められた時」だったりする。

 

桐朋にいた頃は「先生のご指導のおかげです」とか「家族のサポートのおかげです」「有り難いことに、周りの人や環境に恵まれていて」といった返答をすることが多かった。

 

これらの言葉も、感謝の言葉には違いないが「ありがとう」だけはどうしても言えなかった。

 

演奏を褒められて「ありがとう」と言ってしまうと、演奏という一つの成果を、まるで自分の手柄のようにひけらかしているような気がして、恥ずかしさを覚えた。

 

しかも、他の演奏家が誰かに褒められて「ありがとう」と言っているのを目撃しても何とも思わないのに、私自身が褒められて「ありがとう」と言うのは許されない、許してはならない、という謎ルールを自分に課してしたことに、最近気がついた。

 

だからといって謎ルールは完全撤廃、「おかげさまで」から「ありがとう」へ、簡単にシフトチェンジ出来るはずもなく。

 

だって現実問題、自力で演奏のプロになるのは、ほぼ不可能だもの。

 

現役の音高音大生や卒業生、及びそういった人を家族に持つ人なら、その真意をご理解頂けるだろう。

 

家族をはじめとする周囲の理解やサポート、金銭的援助、優れた指導者による的確な導き。

どれか一つでも欠けてしまうと、プロとしてのスタートラインに立つことすら危うくなる。

 

本人にどれだけ音楽を学びたい意志や情熱があったとしても、周囲の理解が得られなかったり、はたまた指導者との出会いに恵まれず、その道が閉ざされた人を、これまで何人も見てきた。

 

だからこそ「私の置かれた環境は恵まれていて、決して当たり前ではない。応援してくれる方やサポートして下さる方、導いて下さる先生方のおかげで今の自分があるんだ」と自ら言い聞かせてきたし、周囲からも「貴方は恵まれている」と言われてきた。

 

私は恵まれている。有り難いことに違いないが、そう思えば思うほど「周りの支えがないと、私は何も出来ないんだな。私一人で成し遂げたことなんて何もないな」という無力感に襲われた。

 

譜面を読みつつ、楽器を手にああだこうだと試行錯誤を繰り返すのが私の日常だが、大多数の音高、音大卒の方々と同じく、自分の力だけで読譜力や楽器の扱い方を習得した訳ではない。

 

音楽に限らず話を広げれば「ご飯を食べる」「服を着る」といった、無意識のうちに行っている日常動作(それらをどうやって身に付けたのか、全く覚えていないような行動の数々)も、自分一人の力だけでは出来るようにならず、その実現には周りの大人の指導や働きかけが必要不可欠である。

 

無力だから、自分の演奏なり言動なりを褒められた時、とてつもない罪悪感に襲われた。

 

だって何一つ、私自身の成果でも何でもないのに。褒められるようなこと、何もしていないのに。

 

いや待てよ、「周りのおかげなんです」の言葉も、自分の成果をひけらかしていると思われたくないがゆえに発しているのだとしたら?

 

それって「おかげさま」を「褒められて居たたまれなくなった時の隠れ蓑にしている」ことになるんじゃないの?それって人としてどうなの?相手に失礼なんじゃないの?…と、ここまでくると、一度発動させた「自分警察」を止めるのが難しくなってくる。

 

一体全体、私は自分自身の何がそんなに許せないのか、何をそんなに厳しく取り締まろうとしているのか。紐解いて見えてきたのは、いつからか心の中を占拠していた恐怖の感情だった。

 

私は、他人に「この人、傲慢だな」と思われるのを過度に怖がっていた。

 

他の誰かが「日々努力してここまで来ました」と発言しているのを見聞きして、「うわーこの人、傲ってるな」とか「自分一人で、ここまで来れた訳がなかろう」とは思わない。

 

けれども、自分が同じ台詞を口にするのは、傲っているような気がした。それを許してはならない、と強く思ってしまった。

 

だって「それ、貴方の傲りだよ」なんて指摘してくれるような、本気でこちらのことを思ってくれるような他人は早々いないもの。大人になればなるほど、そういう人はますます周囲からいなくなる。

 

他人が指摘してくれないからこそ、自身の目を光らせて、心の中を監視しなければ。そんな意識を強く働かせ過ぎていたらしい。

 

自分が身に付けてきたこと、出来るようになったことを視界に入れないように、自分自身を仕向けていたというべきか。

 

視界に入っていない状況では、今現在自分が出来ていることを、客観性をもって自己評価するなんて、出来やしない。

 

その証拠に、ニ、三年ほど前までの私は、紙やスマホのメモ帳に「自分に出来ること」を書き出そうと思っても、何も書けなかった。全く、何一つ思い浮かばなかった。

 

「え、貴方、普通にヴァイオリン弾いているじゃない」とか「生徒にヴァイオリン教えているじゃん」という突っ込みは、正しい。

 

私がヴァイオリンの演奏や指導を「自分に出来ること」としてカウント出来なかったのは「人の力を借りて出来るようになったことを、出来ていることの中にカウントしてはいけない」、プラス「私だけではなく、他の人も普通に出来ていることはカウントしてはいけない」という、これまた奇妙なルールで自らを縛っていたから。

 

褒められた時に「ありがとう」と言ってはならない謎ルールの根源は、ここにあった。

 

他人から「傲ってる」と思われたくない。

 

待てよ、その他人って一体誰?

 

「他人に〇〇と思われたくない」と思う時の「他人」は大概実際の他人ではなく、私の妄想が作り出した人物だ。

 

そう悟った時、私はこれまで自分を縛っていた謎ルールやら奇妙なルールやらを、エイヤァ、とぶん投げた。ぶん投げて「私は呼吸が出来ます」レベルから、自分が出来ることを一つ一つ書き出した。

 

紙に書き出して、客観的に眺めて。そこで初めて気がついた。

 

他人への感謝は大切だし、忘れたくないけれど、「感謝」と「自分に出来ること、出来るようになったこと」は分けて、それぞれ別の箱に収納する必要があるんだ、と。

 

この二つをくっつけて一緒くたにしてしまうと、自分が既に出来ていること、努力してきたことを正しく認める力を奪ってしまう恐れがある。

 

私は極端な人間だと思う。その自覚は大いにあるから、自分が踏んだプロセスが万人に応用出来るとは思わない(というか、自分の経験が大多数のテンプレートになるという考え方自体が烏滸がましい)。

 

だが程度の差こそあれど「いやいや、私なんて」と過剰に謙遜し過ぎて、自分自身を認められなくなる、というのは、さして珍しい光景ではない気がするのだ。

 

「感謝」と「自分に出来ていること」は、混ぜるな危険。

 

最後に、私が某インタビュー記事で出会った素敵な言葉を引用、紹介して、この記事を締めくくりたいと思う。

 

「『人に恵まれてるね』って言葉はあんまり好きじゃなくて。人をつなぎとめたのは、その人の努力でしょ?って思う」

「正しく感謝して、正しく自分の努力を認めてあげられることが、大事なんじゃないかなと」