ヴァイオリン弾きにはアザがある

ヴァイオリン弾き内山恭子のエッセイブログ

「持たない者」なりの戦い方

「君は、ハイフェッツみたいに超絶技巧を猛スピードで弾いてみたいな、とは思わないのか?」

 

当時高校生だった私に、先生は半ば呆れたような口調で尋ねた。

 

(ハイフェッツは20世紀を代表する名ヴァイオリニストの一人で、超絶技巧を目にも止まらぬ速さで、しかも一糸乱れず完璧に演奏することに定評のあったヴァイオリニストだ。)

 

私は質問の意図が分からず、困惑しながらもこう答えたのを覚えている。

 

ハイフェッツは純粋に凄いと思いますが、彼を目指したいとは思わないし、憧れもありません」

 

しかしこの返答、今思えばあまり正確な表現でない。

 

勿論、先生に嘘をついたつもりはない。逆に「私はハイフェッツのように弾きたいです」と答えていたら、それこそ大嘘だ。

 

桐朋で師事した先生しかり、音楽関係の先生方や桐朋の仲間からも「貴方は欲がなさ過ぎる」と指摘され続けた。「どんな演奏をしたいの?」と聞かれても答えられず、黙り込むことが多かった。

 

音高、音大という競争社会で、言葉にせずとも「上位の成績を取りたい」という欲望剥き出しの人達がワラワラいる中、上昇志向もなければ目標とする「演奏家像」も思い描けない。そんなことでは卒業後が危ぶまれる。そう思われても不思議ではない。

 

しかし私は「自分はどんな風になりたいのか?」とか「何に憧れているのか?」「何が欲しいのか?」をいくら自分に問うても、答えらしい答えが全くと言って良いほど出てこなかった。

 

仮にそれらしきものが出てきたとしても、他人が「〇〇を目指したい」と公言している言葉を借りて、それを口にしているような、そんな違和感があった。

 

そもそも欲求や願望に満ち溢れた状態とは、一体どういうものを指すのだろう。

 

本当の意味で貪欲になれない自分を責め、落ち込んでいた。

 

一区切り付けるきっかけを見出すことが出来たのは、ここ一年くらいのこと。

 

これまでの私は「欲が湧かない、願望がない」という一点を深く掘り続けていた。

 

そのやり方が間違っていた。

 

私は「欲が湧かない、願望がない」点を掘るのではなく、その現象が一体どんな仕組みで起こっているのか?という「構造」の方にスポットライトを当ててみることにした。内側に向かって掘り進めるのではなく、俯瞰で観察する方法に切り換えた。

 

ライトに照らされて見えてきたのは、自分の中では当たり前過ぎて、全く自覚のなかった思考癖だった。

 

私は「〇〇をしたい」とか「自分はこうなりたい」という欲望が湧くかどうか、という以前に、「私はその欲望を抱くに相応しい人間か?」という判定を、逐一自分に下していた。

 

誰に命令された訳でも、頼まれた訳でもなく、自ら勝手にミッションを課していたのだ。

 

そして、そのジャッジの結果は、大半がNO。

 

私なんかが、私ごときが、そんなものを欲しがるのは身の丈に合っていない。相応しくない。思い上がりだ、と決め付けてしまう。

 

ヴァイオリン弾きとして、ハイフェッツのような超絶技巧に憧れるか?というクエスチョンに辿り着く前に「私ごときがハイフェッツに憧れる資格など、あるはずがない!」と、こんな具合に。

 

本来、欲望や願望が芽吹くはずの土壌が、カチコチに踏み固められていたのだ。

 

振り返れば、「ハイフェッツに憧れるか?」と問われて困惑したエピソード以外にも、私は「こうなりたい」「あれがやりたい」という言葉が出てこないシーンが多かった。

 

例えば、先生に「弾きたい曲はないのか?」と問われても、真っ先に「私に弾ける曲なんて、あるのか?」と思ってしまい、曲名が頭の中に浮かんでこない。先生は「弾けるかどうか」ではなく、「弾きたいかどうか」を問うているのに。

仮に曲名が浮かんだとしても「未熟な私には早過ぎるのでは?」と尻込みしてしまう。

 

加えて、俯瞰で観察したことによって、踏み固められた土壌の奥に潜む別の感情、思考も明るみになった。

 

私は他人に「こいつ、調子に乗ってるな」と思われることを極端に恐れていた。

 

身のほど知らずの人間だと思われるのが怖くて、ほんの一瞬「いつか〇〇ホールで弾いてみたいな」とか「△△さんと共演してみたい」という思いが芽生えても、自らさっさと刈り取っていたのだ。

 

音高音大は、超実力至上主義社会である。

 

その中で「これがやりたい」「あれを目指したい」という旗を掲げたところで、それらが達成出来ない、もしくは頓挫してしまったら。そんな妄想ばかりを繰り広げていた。

 

恥ずかしい、惨めな思いをするくらいなら、最初から望まない方が賢明だ。私は「諦めグセ」という名の泥に、肩までどっぷり浸かっていた。

 

泥の中で浮遊していた私が、社会に出て一番困惑したのは、自分とは正反対の思考を持った人、すなわち何の躊躇いもなく欲望や願望を口に出す人に、ヴァイオリンを教える仕事だった。

 

「あの曲が弾きたい」と言ったかと思えば「やっぱりこっちの曲が弾きたい」と言う。あるいはその生徒の実力からして、10年経っても手が届きそうもない難曲を「今度の発表会で弾きたいです」と、さらりと言ってのける。

 

大人子供関係なく、このような発言がポンポン出てくる生徒は、ままいる。

 

大変失礼なのを承知で述べると、異星人を観察しているような心持ちである。誇張ではなく「この人達、私とは住んでいる星が違う!」。何もかもが違い過ぎて、レッスン終了後は毎度グッタリ。

 

「そりゃ、アマチュアでヴァイオリンを楽しんでいる生徒とプロの先生では、音楽に対するマインドが最初から違うのだから、そんなの当たり前じゃないの?」と思われる方もいらっしゃるかもしれない。

 

だがそれは違う。肝心なのはプロとアマのマインドの違いではなく、「一人間としての」マインドの違いだ。

 

人間としての健全さでいえば、私よりもこの生徒達の方が明らかに健全だ。自分の欲に蓋をせず、素直に従うというのは、人間的な行為の一つ。

 

私のことを(コロナ禍で流行した)「マスク警察」や「自粛警察」に倣って「自分警察」と形容した親友の指摘は、この上なく的確だった。

 

私は自分を厳しく取り締まり過ぎていた。自分警察を発動させてしまう癖(へき)は、私がこれまで過ごしてきた環境に起因している部分はあったものの、親友は「とにかく厳しい取り締まりから自分を解放してあげないと、この先どん詰まりだよ」と、丁寧に私に教えてくれた。

 

欲望、願望を自ら締め出すのではなく、それらを持つことを許す。自分で許可する。人生、調子に乗ってなんぼ、なのだと。

 

「そんなの、怖くて出来ない」と思う方もいらっしゃるかもしれない。

 

なにせこの社会は、自分の欲望全開で生きることを基本的に推奨しておらず、そのような人間を「自分を律することが出来ない、わがままな人」とか「傲慢」「自己中心的」と判定するような空気が蔓延している。

 

「調子に乗ってなんぼ」なんて、道徳の教科書に載せようものなら、真っ先に文科省から却下されそうな言葉だ。学校や社会では「調子に乗ると痛い目に遭うから、調子に乗るな」という戒めが強調されがちだ。

 

そのことを承知の上で言いたい。

 

「自分を戒め、律していかないと、社会はまわらないよ、人に迷惑をかけるよ」というお叱りは、もううんざり。聞き飽きた。

 

そんな戒めに従うよりも、自分が欲しいと思うものを「欲しい」と口にし、自分自身をどんどん調子に乗せて(調子を上げて)いくことの方が遥かに大切だ、とこの歳になって痛く思い知らされた。

 

そういった方法を選択することで、たとえ周囲から「空気の読めない人間」とジャッジされたとしても、だ。

 

なぜならこの二つ(欲しいと口にすることと、調子に乗ること)は、いくら他人にやって貰いたいと願っても、自分以外の人間には実現不可能だから。たとえ親や先生であったとしても。

 

誰かがこちらの辿り着きたい場所を察してそこまで導いてくれる、なんてことは、絶対にない。

 

少なくとも、私がこれまで関わってきた「欲に従順で、調子に乗っている」ように見えた生徒や人は、朗らかだった。眩し過ぎるくらい。

いくら他人に疎まれようとも、このメンタルを持っている人からすれば、そんなものは些末なこと、というかそもそも視界にすら入っていないのだろう、と。外から見て悟った。

 

勿論、自分が生まれ落ちる環境や属性は自身で選べず、それゆえに実現不可能な願望や目標があることは事実なので、「願えば叶う」とか、そういう安直なことは言いたくない。

 

ただ、どんな環境、属性で生まれたとしても、最終的には自分が本当に辿り着きたい場所は自分で見つけるしかないし、そこに自分を導くことが出来るのも、自分自身しかいない。

 

そうなると、これまで「欲」や「願望」で以て人生の選択肢を選び取ってこなかった私が、一体何を基準に人生を選択してきたのか、という問いが残る。

 

(私のような、音楽一家に生まれた訳でもない人間が、こうして曲がりなりにも音楽で生きている時点で信憑性がないぞ、と言われてしまうかもしれない。)

 

しかし、この答えは「欲が湧かない」現象の観察と違い、わりと早くスッと自分の中に落ちてきた。

 

私は、自分の欲しいものが湧いてこない代わりに、知らず知らずの内に身につけたスキルで以て人生を選び取ってきた。

 

そのスキルとは「自分の苦手なもの、自分を潰そうとする環境や存在から、全力で逃げ続ける」というもの。

 

私は、苦手なものや「ここに身を置き続けたら、自分は再起不能になる」と感じるものを嗅ぎ当てる、察知する能力が異様に発達している。つい最近まで、全く自覚のなかった能力だ。

 

「あ、危ないな」という直感は、歳を重ねるごとに磨かれ、特に社会に出てからはほとんど外れたことがない。

 

それでも直感だけで動けず、直感に反して「自分を潰しにかかってくる」人と接触してしまった、あるいはうっかりそのような環境に身を置いてしまったことに気がついた瞬間、私はその人、その場所から全力で逃げた。後ろ指をさされたり、「この裏切り者!」と罵声を浴びせられたりしても、お構いなしに。

 

逃げ続けた結果、辿り着いたのが今の現在地である。

 

こういう生き方しか出来なかった自分を、かつては恥ずかしいと思ったこともあった。

 

だが「自分はこの人と関わっていると、この環境に居続けると、潰されてしまう」と感じながらも「ここで逃げ出したら人に迷惑をかけてしまう、嫌われてしまう」と逃げ出すことを躊躇い、結果ペシャンコになってしまう人も世の中にはいる、という事実を知った時、「危険を察知して逃げる」能力は、決して恥じるものではなく、捨てずに大事にして良い処世術なのだ、と思った。そこでも一つ、自分を許すことが出来たのだ。

 

この術を大切にしつつ、今は「欲しいもの、やりたいことを自分に許可する」こと、自身を調子に乗せることに全力を注いでいる。

 

人間、そう簡単に変われないのは分かっている。

 

それでも、踏み固められた「欲」という名の土壌は今からでも改良出来て、「諦めグセ」という名の泥から「脱出する」という選択肢も、ちゃんと存在する。そこに気がつけた時点で、見える景色は確実に変わった。

 

自分の未来に対して怖さも抱きつつ、ほんの少しだけ、明るい未来を思い描く。それだけの体力、気力みたいなものが、自分の身体に宿りつつあるのを感じている。