ヴァイオリン弾きにはアザがある

ヴァイオリン弾き内山恭子のエッセイブログ

100%自分が負ける後出しジャンケンは、気遣いではない。

自分の苦手なものや人、「どう足搔いても、この環境に自分を適応させるのは無理だ」という場所を直感で判断し、極力そこから離れる、という処世術が私を守ってくれた、ということは前回の投稿で記した通り。

 

ただ、それは「自ら願い、努力して獲得した」というよりは「身につけざるを得なかった」スキル、と捉えている。

 

同時に「使わずに済むのであれば、それに越したことはないな」とも思う。

 

なぜなら(親や学校の保護下から逃げられない10代ならいざ知らず、)大人であれば「自分の苦手なものを察知して、そこから逃げる」よりももっと手前、つまり最初からそれらをなるべく寄せ付けないように、マインド設定を変更出来るから。

 

現在30代の私は、20代の時点で「マインド設定の変更」という選択肢がちゃんと存在していたはずなのに、「諦めグセ」という名の泥の中で「私はここから一生出られない」と頑なに思い込み、泥からの脱出どころか正反対の方向、泥の奥深くまで根を張りめぐらせる方向に突き進んでしまった。

 

より具体的に言うと、自分の苦手なものを嗅ぎ分ける嗅覚は、他者が苦手だと感じているもの、嫌いなもの(こと、人)も敏感に嗅ぎ取ることまで覚えてしまった。

 

相手にとっての「苦手」や「嫌い」という「地雷」を踏み抜く前に「ここに地雷が埋まっているぞ」と察知出来れば、お互いに怪我をせずに済む。地雷を踏み抜かないことを、コミュニケーションの最優先事項として掲げていたのだ(無意識のうちに)。

 

こういうコミュニケーション術は「気遣いが出来る」「相手の気持ちを汲んでいる」「共感力が高い」などと評されることもあるが、それに惑わされて誰彼構わず発揮させるのは、かなり危険だ。

 

この世に「良いものだと勘違いされやすいスキル選手権」もしくは「使いすぎ注意なスキル選手権」なるものがあったら、確実に表彰台に乗るのではなかろうか。良さげなスキルに見えるからこそ、たちが悪い。

 

その場限りで関係が終わることが最初から分かりきっている相手とのコミュニケーションであれば、害はないのだろう。

 

けれども「相手と対等な関係を築いていきたい」とか「健全な信頼関係を築きたい」「長く関係を続けていきたい」と望んでいるのならば、あまり良い手とは言えない。

 

あろうことか、私がこの「良くない手」を最も炸裂させていた相手は、音高音大時代に師事していた先生である。

 

良好な師弟関係を築くために、音高生や音大生は当たり前のようにこの手を駆使している、と思い込んでいた過去の自分を殴ってやりたい。

 

私は「先生が嫌いだと思っている(あるいは苦手だと感じている)音や弾き方、さらには嫌いな人のタイプまでを、それとなく察知して回避する(=自分に内在する、先生が嫌いなキャラクターを外に出さない)」能力だけは、桐朋の中で頭抜けていたかもしれない。

 

特殊能力でも何でもなく、物心がつく前に身につけた「相手の地雷を回避する」能力を、レッスンの場でも発揮させていた、というただそれだけの話なのだが、全くもって自慢にならないし、本当に笑えない。

 

むしろ、クリエイティビティが求められるはずの場所でこんなスキルを発揮させたとて、当然のことながら何の成果も生み出さない。

 

勿論、長く一人の先生に師事していれば、多少なりともその先生の傾向は誰にだって見えてくる。

 

ただ私の場合は、先生に師事して間もない頃から、先生の「嫌い」や「苦手」を(師事歴が浅いわりには)他の生徒よりやたら敏感にキャッチしていたように思う。

 

先生は嫌いな音や苦手な弾き方、嫌だと思う人のことを、はっきりと「それは嫌いだ」「嫌だ」「苦手だ」と表明する人ではあったが、私は先生が表明する手前の時点で「こういう弾き方は、絶対先生が嫌がるはず」「こういう言動は慎んだ方が良さそう」などと逐一予測を立てて行動に移していた。

 

レッスン中、先生は何度も楽器を手にとって手本を示して下さる人だった。「私の真似をしても、貴方の音は貴方の音のまま。絶対にコピーにはならないから、とにかく真似しなさい」とおっしゃるその言葉に、生徒の私は何の疑いも持たなかった。

 

疑うどころか、先生が手本を示す前に、こちらが先生の弾き方を予測して、その通り弾くことが出来れば、地雷を踏み抜く確率を下げられるぞ…といった具合で、ますます地雷回避に注力していった。

 

先生が私に「貴方のレッスンはストレスが少なくて助かる」という趣旨の発言を何度もしていたのが、今でも記憶に残っている。

 

演奏の地力に自信が持てなかった私は、そのように言われれば言われるほど「先生にとってなるべくストレスを与えない存在であり続ける」ことでもって、自分の存在価値を示していくしかない、という思いが増していった。

 

その価値がなくなれば、私は破門されて行き場を失ってしまう。私は先生を喜ばせるような術を何も持っていない。練習の最中も、頭の中は常に「この指遣いは、このビブラートは、このボーイングは、先生の気分を害さないだろうか」という思考でいっぱいだった。

 

先生が考える「レッスンの在り方」と、私の思考癖が絡み合って形成された師弟関係は、歪んでいて脆かった。

 

社会人になっても、先生に対する私の思いは学生時代と何ら変わらなかったし、以前と同じスタンスを維持していたつもりだった。それが、気がつけばレッスンに行くどころか、先生のメールに返信しようとするだけで、スマホを持つ手が震え、吐き気や目眩を催すようになった。

 

私は先生から離れた。

 

離れてしばらく経って、ようやく気がついた。

 

相手の地雷を察知して避ける行為は、相手のことを慮っているように見えて、その実まるで違うのだ、と。

 

先生と私の関係でいえば、私は先生に対して、後出しジャンケンをひたすら繰り返していた。それも、100%私が負けるジャンケンを永遠に。

 

先生の顔色を伺い、先生を立てて、ひたすら自分を下げて。自分の腹の中、本当に思っていることは絶対に言わない。

 

このような態度は、謙遜とは呼ばない。配慮とも、ましてや思い遣りとも呼ばない。

 

「私、先生とは対等の関係ではいられません」「私は先生を信頼していません」と表明しているも同然である。これを失礼と呼ばずして何と呼ぶのだろう。

 

学生時代の私が、演奏の地力に自信が持てなかったことは先述した通りだが、そのことと先生との間には何の関係もない。そう割り切っていれば、ここまで師弟関係が歪む事態は避けられたかもしれない。

 

先生と距離を取ったことで、もう一つ気がついたのは、地雷察知能力を過剰に発達させると、地雷が沢山埋まっている他者をどんどん引き寄せてしまう、というホラー現象。高確率で「私の地雷を良く理解してくれる、都合の良い人」として認知され、盛大に振り回されることになる。

 

振り回されて散々な目に遭って、ようやく私は「自分のマインド設定を変更する」というスタート地点に立てた。過去の私が「もっと早く気がつきなさいよ」と憤慨している姿が見える。

 

そしてこの経験は、指導の仕事に大きな影響を及ぼした。

 

大学卒業後、少しずつ指導の仕事を広げていった私は、今日に至るまで(正確に数えたことはないが)累計100人以上の生徒と接してきた。

 

その間、ずっと頭にあったのは「健全な師弟関係とは何か」という問いだった。演奏技術や音楽を生徒にどう伝えるか、ということ以上に考えた。

 

私に対して「お前は趣味で楽しむ生徒ばかりを相手にしているから、そんな綺麗事が言えるんだ」と鼻先で笑う音大の教授もいるかもしれない。

 

それでも私は「生徒がプロを目指す以上、歪んだ師弟関係はやむを得ない、必要悪だ」とは絶対に言いたくなかった。言いたくないがためにひたすら考え続け、過去の自分と向き合った。

 

かつて生徒だった私が、必ず自分が負ける「後出しジャンケンマスター」だった、と自覚したことで見えてきたのは「先生と生徒がお互いに敬意を払い、両者ともに自尊心を持つことの大切さ」。

 

先生と生徒、どちらか一方の心掛けだけで、健全な関係は成立しない、と悟った。

 

先生としての私は、自分の自尊心が低下していないか、注意を払うようにしている。

 

低下してしまうと、生徒に対して例の地雷察知能力を発動させて、再び後出しジャンケンを繰り返すことになる。

 

いくら生徒の反応が怖いからといって、それを連発していては、持続可能かつ健やかな関係は構築出来ないよ、と。そう自ら言い聞かせている。

 

正直、私にとっては超絶技巧の曲を弾くよりも難しい。

 

もし、これを読んで下さっている貴方が現役音高生、音大生で「私も先生に対して、自分が必ず負ける後出しジャンケンをしているな」と気がついたとしたら。

 

後出しジャンケンマスターの称号は、明らかに不名誉な称号だから、少しずつでも手放すように努めた方が良いと思う。

 

仮に手放すことで、先生との関係がギクシャクしたり、はたまた先生の態度が一変するようであれば、その先生からは離れた方が良い。

 

「ただでさえ狭い音高、音大の世界で、そんなの怖くて出来ない」と思う人もいるかもしれない。「幼少期にお世話になった先生が紹介してくれた手前、師事している先生を変えるのは無茶だ」という人もいるだろう。その気持ち、手に取るように分かる。

 

だが(前回の投稿で記したことの繰り返しになってしまうけれど)、最終的に音楽家としての自分、そして自らの人生を導くのは先生ではなく、自分なのだ。

 

人生の舵取りを他人に任せて、何か上手くいかないことがあったとしても、他人は責任を取ってくれない。

 

「周りにどう思われるかな」「クラシック界の暗黙のルールだから」といった懸念は、一旦取っ払ってみよう。

 

先生との関係は本当に健全だろうか?レッスンという場所で自分は何を学びたいのか?

 

それだけをシンプルに考えて欲しい。

 

「今師事している先生から離れよう」という踏ん切りがついたら、新たに師事する先生を探すことになる訳だが、こういうシチュエーションで、音高や音大という環境、ネットワークの強みが貴方の味方をしてくれるはずだ。

 

同級生や先輩、後輩、他専攻の先生や音楽理論の先生。貴方が「この人なら信頼出来る」と思う人に相談してみてはどうだろうか。

 

お節介な音大卒のアラサーは、現役学生の貴方が、音楽家としての貴方の主体性を尊重してくれる先生と出会えるよう、祈っている。