ヴァイオリン弾きにはアザがある

ヴァイオリン弾き内山恭子のエッセイブログ

適度に信じ、適度に疑う。「ブレ」は「しなり」

自分へのダメ出しが、不健康かつ持続不可能な行為で、プラスになることは何一つない、と痛く思い知らされた私は、健全さを失わずに演奏の精度を上げていく方法を模索していくことにした。

 

とはいえ「自身の成長は、しんどいことや嫌なことと必ずセットになっている」と強く思い込んできた私にとって、そのような方法は果たして存在するのか、半信半疑でもあった。

 

自分へダメ出しし続けている人、自分への疑いが晴れない人に対して処方される言葉の多くは「自分を信じよう」とか「自信を持とう」といった類の言葉だ。

 

あながち間違ってはいないと思う。

 

だが自分を過信し過ぎたり、心のどこかに傲りがあれば痛い目にあう、ということも経験済みである。

 

自分のダメな部分しか見えていない状態が客観性を欠いていることは前回の投稿で記した通りで、逆に自分を過信している状態も然り。

 

ならば自分を客観的に見つめる、俯瞰することが「演奏の精度を上げる」(自分に厳しくする、厳しくある、と言い換えられると思う)ことへの第一歩になる、という仮説を立ててみた。

 

次に、この仮説を具体的にどう実践するか考えてみたものの、いくら考えても私にはこの方法しか思いつかなかった。

 

それは「自分の演奏を録音(録画)して、聴く(見る)」という、至ってシンプルなもの。

 

同業者から「そんなこと、既に実践しているわ」というお叱りが聞こえてきそうだ。私にとっても特に真新しい手法でも何でもなく、これまで数え切れないほど練習や本番を録音し、聴くという作業をやってきた。

 

ただ単純な作業の中に、意識的に新しい行程を三つ取り入れてみた。

 

一つ目は、曲を部分的に切り取って演奏し、録音するということ。言い変えると、曲を全曲通して演奏し、録音することはほとんどやらなかった。

 

勿論、通し練習には意義がある。「曲を通す」という、本番を想定した練習が必要なのは確かだ。

 

だがこれまでの私は、(長期間練習した曲や一定の完成度まで到達した曲、既に複数回本番を重ねている曲などは特に)通し演奏を録音して聴き返しても、漫然とした聴き方になってしまうケースが多かった。「良くはないのだけれど、具体的にどこが悪いのか、どこから手をつければ良いか分からない」状態に陥りやすかった。

 

それを回避するため、全曲ではなく短く切り出して演奏、録音した。細部まで注意深く聴き取り、目を行き渡らせるために。

 

二つ目は、録音を聴きながら自分の演奏をジャッジすることをやめた。より正確に言うと、減点法で聴くのをやめた。

 

自分の課題、弱点をスルーするのではない。録音を聴いていれば、当然粗は見えてくる。そこで「はい、減点!」と赤ペンでチェックを入れるのではなく、「あぁ、粗があるな」とただ眺める。ネガティブでもポジティブでもないフラットな感情で、でも決して目を逸らさずに。

 

かつての私なら、録音を聴いて少しでも気に入らない点があれば直ちに再生を停止し、楽器に手を伸ばしていたところだが、その手を引っ込めて二度、三度と録音を聴き返した。

まあまあな出来のところも、これっぽっちも気に入らない箇所も、ただただ眺め続けた。

 

沢山弾きまくる、量をこなすことで本番への不安を打ち消そうとしていた私にとって、これが一番胆力を要する行程だったと思う。

 

聴いて、ただ眺める。縦と横に伸びた座標軸の中で、自分がどの位置にいるのかを俯瞰する。

 

三つ目は、俯瞰することで認知した自分の立ち位置から、理想の地点までの距離を計測し、その距離(ギャップ)を埋めていく行程。

 

どこを「理想の地点」と設定するかは、人によって異なると思うが、「理想の地点」を「一つの綻びもない、完璧な演奏」と設定してしまうと、自分にダメ出しする例の悪癖を発動させる危険性があるので、おすすめしない。

 

また「師事している先生が褒めてくれる」とか「客受けする」「コンクールやオーディションで審査員に評価される」と設定するのも、避けた方が良い。他人の判断基準をそのまま自分の判断基準に持ち込むと、自分の感覚が鈍化し、心のセンサーが壊れる(この辺りは、今後別の投稿で綴っていこうと思う)。

 

私は理想の地点を「自分が一お客として聴いていて、しっくりくるところ」と設定した。

 

演奏しながらしっくりくると感じる音の運びと、聴き手がしっくりくる(心地良い)と感じる音の運びは、必ずしも一致しない(人によっては一致するかもしれないが)。私の場合、両者には相当な乖離があった。

 

私は自分の演奏を「聴き手としてしっくりくる、心地良いと感じる音の運び」の方に近付けようとした。そのために、自分の現在地と理想の地点の間に、一度ではなく何度も定規を当てた。

 

何度も定規を当てる行為は、私からすると「自分を信じられない」「自分を肯定する言葉を直ぐ疑ってかかる」悪癖の「応用」だ。

 

定規の目盛りは正しく読めているか?そもそも定規自体が「自分」という不完全体がこさえたものなのだから、どこまでの精度なのかも怪しい。むむ、これは疑わしいぞ、と何度も測り直した。意図せず身に付けた「癖」とはいえ、ここで活用させずにいつ活用させるのだ、という思いで、その力を発揮させた。

 

そして計測をもとに、その距離(ギャップ)を埋めていく作業に移る。これは理想という名の絵の上にトレーシングペーパーを重ね、下から透けて見える輪郭線を鉛筆でなぞっていくような感覚だった。

 

ただ、ここでも完璧主義という癖の発動を防ぐため、一発で正確になぞろうとしないよう心がけた。

 

線がはみ出たりズレてしまったら、鉛筆の角度や筆圧を見直し、また新しいトレーシングペーパーを用意してやり直す。むしろ、この微調整の繰り返しが、これまでの行程を最終形まで持っていく鍵を握っている。

 

以上、三つの行程を自分に課して練習し、臨んだ本番は、残念ながら録音、録画禁止の本番だったため、演奏の精度がいかほどのものだったか、客観的に振り返ることが出来ない。

 

だがステージで得た感覚と、演奏が終わって袖に引き上げた時に湧き上がった感情は、これまでの本番とは明らかに違った。

 

誤解されそうなので先に述べておくと、ノーミスの完璧な演奏をした訳ではない。技術的なミスは複数あった。けれども、ミスした瞬間に「やってしまった!」と自分を責めることはなく「あぁ、うん」くらいの、何なら「これは必然だった」と思えるくらいの感覚で受け止めながら、演奏を進めている自分がいた。

 

演奏しながら、音が進んでいく方向、道がはっきり見えた。その道に一歩ずつ自分の足を着地させて、踏み締めていく実感があった。

 

そしてステージから引き上げた後。これまでの私なら、頭の中で大反省会ならぬ大自虐大会が開かれるのがお決まりだったが、この時は違った。ミスした箇所を全て自覚している冷静さはありながら、自罰的な感情は湧かなかった。

 

一つ今後の課題を挙げるとするならば「俯瞰する視点を持ちつつも、その瞬間瞬間に心を動かしながら弾く」ところなのだろう。

 

これはまた別の仮説を立てて実践する他なさそうだ。

 

ともかく実践して分かったのは、三つの行程はどれも地味で、取り組んでいる最中の達成感はほぼない、ということ。瞬時に目に見えるような、分かりやすい成果が得られる訳でもないし、もっと正直に言えば面白くなかった。

 

というか、自分の演奏の録音を聴くという行為そのものが愉快なものではない。

 

(演奏することがない、という人は、自分の喋りを録音して聞く、という行為に置き換えて想像して頂ればおおよそ間違いないと思う。録音された自分の声を聞いて「楽しい」とか「好き」という感情を抱く人は、かなり少数派と思われる。)

 

けれども、自分へひたすらダメ出しし続けていた時のような、首を締めていく感覚は全くなかった。しんどいとか、嫌な感情は湧かなかった。

 

俯瞰することで自分の立ち位置を把握し、理想までの距離を測る。

 

理想に辿り着くために、闇雲に練習するのではなく、微調整を繰り返す。

 

微調整を繰り返すさまは、傍から見ればブレッブレな人間に見えるかもしれない。

 

だがやってみて、私は気が付いた。

 

アラサーになって以降、分野を問わず私が感銘を受けた方々は、ブレない屈強な芯を持っている、自信の塊のような人間とは対極にいるような方ばかりだった。

 

右に行こうとしたら二歩余計に進んでしまった、左に二歩戻ろうとしたら、三歩戻ってしまった。

 

そんな風に、迷ったり失敗したりしながらも微調整を怠らず、主観的な視点と客観的な視点、両方の目で自分を見つめながら、進路を決めている人。芯があるとすれば、そこに「しなり」がある人。しなりがあれば、ポキっと折れることはない。

 

ロールモデルにしたいと思える人が、既に心の中にちゃんといたのだ、有り難いことに。

 

ダメ出しし続けるのは良くないが、無理に自信満々になろうとしなくても良い。この気付きに実体験が伴ったことで「これは私にも応用可能なんだ」と確認出来た。

 

なんだか肩の荷が一気に降りたような気がする。

 

適度に自分を信じ、適度に疑いながら、というのが丁度良さそうだ。