幼少の頃から、感情を外に出すのが苦手だった。人前に出て何かするのが得意ではなかったし、好きでもなかった。
ステージに立つ度に「無味乾燥な音」とか「淡白な演奏」などと評されることもしばしば。
そういった評価を私は聞き流せなかった。なぜなら、それらがそっくりそのまま自己評価でもあったから。
録音、録画で自身の演奏を振り返れば、演奏そのものの粗は目につくものの、それ以上に「どうしてこんなつまらない演奏しか出来ないんだろう」「なんて冷たい演奏なんだ」という思いばかりが募った。
こんな演奏しか出来ないなんて、私は人間の心が無いのでは?血が通っていないのでは?と自分を責めたこともあった。
いっそのこと、毒にも薬にもならない演奏しか出来ないならヴァイオリンなんてやめてしまえ、と自身に苛立つこともあった。
音に感情がのらない原因は何なのか。
音楽高校、音楽大学に在学していた頃の私は、自らの技量不足が原因だと決めつけていた。
なにせ中学生の時点で、桐朋の高校入試の当落線にも引っかからないようなレベルだったので、周囲と比較して技量が著しく劣っていたのは言うまでもない。特に高校の頃は躍起になって音階や練習曲をさらっていたが、本当の意味で私の足を引っ張っていたのは技量不足ではなかった。
高校入学までの人生、そして入学後に経験してきたあらゆるシーン。それらを切り抜けるため、知らず知らずの内に身につけてきた処世術や考え方のクセが「感情を表に出そう」という行為を阻んでいたのだ、と気がついた。30歳を過ぎた今になって。
振り返れば、演奏者としての自己アピールを求められる度に強烈なアレルギー反応を起こしていた。まるで蕁麻疹のような。同級生に「桐朋の絶滅危惧種」と揶揄される位、私は明らかに周囲から浮いていた。
絶滅危惧種かどうかはともかく、表現することとアピールすることは全くの別物、というのが私の持論だが、学内の試験やコンクールという「いかに自分を人よりも良く見せるか、聴かせるか」という競争社会において、その持論はどこまでいっても綺麗事に過ぎない。
もっといえば、どんなに心の中で思っていたとて、外に出せなければ、無いもの、存在しないものとして扱われてしまう。
音高、音大という世界、クラシック音楽業界に漠然と漂う空気。何とか溶け込もうとしては、つまづいてばかりだった。「私はここにいてはいけないのかもしれない」と幾度となく思い、立ち去ることも何度か考えたが、踏みとどまった。
人前に出るのが好きではないと言いながら、音高音大といういわば「演奏家養成所」(と称すのはいささか乱暴だろうか?)を経て、今なおステージに立ち続けている。その時点で私の生き方は突っ込みどころ満載だ。
それでも、分かっているようで一番分からない「自分」という生き物を観察し、また信頼出来る他者からのアドバイスを咀嚼して…というのを繰り返していくうちに「この業界内で自分の居場所を、自分の手で作り出せるかもしれない」と少しずつ思えるようになった。
私の中で無意識の内に醸成された「処世術」や「考え方のクセ」は、「感情の表出を阻む」という点において矯正が必要な部分はある。
しかし、悪癖としか思えないものを、エイヤァと思い切って人前に晒してみると「それが貴方の長所」とか「活用すれば武器になる」といった予想外の反応が返ってくることもある。
他者の視点を通して自分を客観視されることで、一人で一問一答しているだけでは決して見えなかったものが見えてくるのだ。
10代や20代前半の若い時に、それも意識的ではなく無意識に染み付いたクセや習慣を取り除くのは、容易ではない。
けれどもその「クセ」、活かすも殺すも自分次第なのでは?むしろ、全て殺さなくても良いのでは?
活かし方によっては、自分の居場所を作り出す大事なツールになる可能性を秘めているのだ。
その可能性は私だけではない、これを読んで下さっている貴方にも。
これからここに綴っていく内容は、クラシック音楽だけでなく、芸事と括られる表現活動に携わる方にも当てはまる部分があるかもしれない。
恐れ多いが、私という一個人の経験が(数としてはそれこそ絶滅危惧種並みかもしれないが)似たような属性、立場にある誰かにとって、ささやかでも何か見出すきっかけになれば嬉しい。
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